今度は具志堅 用高かよ(笑)


またまたきました対談という形式での広告依頼。
雑誌編集社から唐突に電話が入った。

以前は、国際グラフってとこだった。
今回は国際通信社ってとこで”国際ジャーナル”っていう雑誌。
電話受けてすぐに気付いた。
「どーせ有料ってことは一番最後に伝えるんでしょ」。
まぁでも、今度はどんな人が対談にくるんだろうと興味を抱き、相手のお話を聞くことにした。
ニコニコしながら「うんうんハイハイ」と聞くオレ。
前フリは以前とほぼ似た感じで話が進む。

「あのですねー、あの具志堅 用高さんと対談という形で・・・」

今度は具志堅 用高かよ!(笑)
勿論、今回も丁重にお断りした。

ちょっちゅねー。

ボクシングの話で思い出しました。
僕が25才のころ、丁度コギトを立ち上げたときの頃です。
某建築士受験のための学校に通っていてそこで知り合い仲良くなり二人で呑みに行きいつしか親友ほどの仲になりという人がいました。
彼も同じく25才でした。そして建築設計事務所に勤めていました。

ある日いつもの居酒屋に行くために、その店までの途中にある彼のアパートに行きました。
汚ったない1Kのアパートの彼の部屋ではいつもDragon Ashの曲が流れていました。

彼は突然言いました。
「俺、今日仕事辞めてきた」
「え!?なんで?」
「ボクシングしたくなったから」
「へ!?」

「へ?」である。もしくは「は?」だったかもしれません。
建築設計事務所というのは、とても給料の安い仕事ですが、呑めばそれなりに仕事の話を楽しくしていたし、将来の夢的な話もしていました。
そんな彼からの突然の発言に「へ?」しか出てきませんでした。

「なぜ?」
「ん?いや、夕べ読んだ本に影響されちゃってね」
「は!?」
「お前アホやろ」
「うん、多分アホやね」
「ちょー、ちょーちょー、ちょー待てって、待てって、まじなんで?まじで?」
「うん、まじ」
「辞めてボクシングって・・・つーか、やったことあんの?」
「ないよ」
「・・・」
「で、どーすんの?ボクシングしてどーすんの?生活は?」
「プロボクサーになって稼げるやろ」
「お前、完全にアホやな。既にパンチドランカーなんちゃう?」
「なんとかなるやろ」
「ならんて。25才やよ、しかもやったこともないんやろ。」
「シャドーならちょっと」
「アホや。こいつアホや」
「シャドーて。それただのマネしただけやん。そんなんやったら、俺だってロッキー見た後よくしてたし、ジャッキー見た後はカンフーしてたし、ブルースリーのときは、ドンシンク言うてたし、ブルースウィルス見た後は突入してたわ。アホか」

と、そんな会話が1Kの汚ったない部屋で小一時間ほど繰り広げられ、

「とりあえず番星行こう」(一番星という大淀川河畔の小さな居酒屋でした)
「うん」

「で?」
「で?って?」
「いやだから、まじでプロボクサーになるわけ?」
「なるっつーか、なりたいね」
「ジムとか行くわけ?」
「うん、もう電話して明日から行く様にしてる」
「へ!?」

こんなに「へ!?」を連発した日が未だかつてあろうか、それくらい驚きの発言ばかりしやがる彼は言いました。

「プロデビュー戦の登場の音楽はDragon Ashでいくて決めたとよね」

・・・

「マスター、枝豆」
こいつは、もう止められないと思いました。そして応援していこうと決意しました。
壁に張られたサイン入りのポスターの上半身裸で傷だらけの大仁田厚がこちらを見つめていました。

それから、約半年後、彼は見事にプロボクサーのテストに合格してしまいました。
久々に会う彼の体はまるで別人でした。
それから数週間後、プロデビュー戦が決まったという電話があり、場所は福岡で相手は福岡のジムの所属選手とのことでした。
完全にアウェーというわけです。
僕は、福岡までのバスチケットを買いひとりで応援に向かいました。
プロボクシングの試合を生でみるのはこれが生まれて初めてでしたので、なんというかみんなギラギラしてるんです。
つまり、メジャーな選手ではないのでボクシング好きという観客でなく、身内ばかりという敵対心の塊がここそこで感じるのです。

彼の番です。
Dragon Ashのそれが館内に響き渡りました。
遠目でもガッチガチに緊張している彼の様子が見て取れました。
僕の両隣、というか廻りすべては相手方です。
ヤジの応酬です。

判定で勝ちました。
涙がこぼれました。

彼はその後何度かの試合を重ね、高みを目指すべく横浜の横浜光ジムへ移籍していきました。
あの元WBA世界ライト級チャンピオン畑山隆則が在籍していたジムです。

この数年で彼をとりまく環境は一辺しました。
あのとき読んでいた本が彼の人生を180°変えたことは間違い有りません。

今、ともに34才。

彼とはずっと連絡を取っていません。
それはいつか彼の方からきっと連絡があると思っているからです。

横浜に行ったときも彼はまだ親に設計事務所を辞めた事は伝えなかったみたいです。
いつか笑顔で会いたいと願う日々です。